先日、塾舎でのことです。
一人の生徒さんから「先生、俺らってなんで英語の勉強してんの?」と質問を受けました。
それについて、少し深く考えてみたので、備忘も兼ねて(笑)コラムに残してみます。
先にお詫びしておきたいのですが、僕は英語が滅茶苦茶得意!なわけでも、外国語学習が大好き!なわけでもありません。
ただそんな僕でも(その他外国語を含め)英語を学ぶことにはそれなりの意義を感じるよ、というお話です。
それほど意識が高いわけではない人間が、それなりの頭で考えていること、という生暖かい目線でもってお読み頂けると幸いです。
突然ですが、この英文を見てみて下さい。
There were an old man and an old woman in a place long long ago.
これを日本語に直すとどういう意味になるでしょうか。
正解は、
「むかしむかしある所に、おじいさんとおばあさんがいました」です。
かの有名な「桃太郎」はじめ、日本の昔話でよくある書き出しですよね。
ここで注目したいのは、どちらも同じことを伝えている文章なのに、英語と日本語で文の構成が大きく異なっていることです。
むかしむかし/ある所に、/おじいさんとおばあさんが/いました。
There were / an old man and an old woman / in a place / long long ago.
それぞれの文を言葉のまとまりに分解すると、英語と日本語で正反対の並びになっていることがわかります。
そしてこの“話す順序の違い”は、一文の中の単語の並びだけでなく、長い文章全体の構成においてもみられます。
この違いにはどうやら、言葉を話し始めた頃の西洋人と日本人の生活スタイルが大きく異なっていたことが関係しているようです。
西洋の原始人のライフスタイルは、狩猟が主です。
そして狩猟中の会話では、「誰が何をする」「結論」が一番大切になります。
そのため英語では、誰が・何する・結論をできるだけ文の初めの方に持ってこようとします。
「あれは~が~で~だから、、」などと悠長に話していると獲物に逃げられてしまいますし、もっと悪い場合には背後から別の動物に頭をぶん殴られて、自分が戦闘不能・会話不能になってしまうかもしれませんからね。
対して日本の原始人は農耕民族であったと言われています。
彼らは集落のメンバーで状況を整理し、共通認識を元に意思決定をし、共同作業を行います。
その際に重視されるのは情報の細部までを共有し、協調することです。その為には自分の話を聞いている相手の頭の中に、自分が見ているものと同じ景色を作り上げる必要があります。
そして、逃げ足の速い動物を主な相手にしているわけではない彼らには、基本的に、じっくり・ゆっくりと会話を行うだけの時間があります。
それ故に日本語において文の初めに来るのは、理由・周囲の状況・物事の背景を表現する部分です。
細かな状況や自分の考えのニュアンスを正確に相手に伝えながら、細かに相手の同意を得つつ、徐々に結論部分に至る、というコミュニケーションですね。
この2者の違いを簡潔に表現するのであれば、英語は”伝達”のための言語、日本語は”共感”のための言語、といったところでしょうか。
当然、すべての文章や会話がこの法則に当てはまるわけではなく、ややこじつけのように感じられる部分もありますが、間違いなく重要なのは、「この言語には、こういった性格がある」という認識を持っておくことです。
例えば、
「英語の話し方は物事を簡潔に伝えるのに向いている。ただし、工夫無しでは淡白なコミュニケーションになることがある」
「日本語の話し方は自分の見ているもの、感じているものを相手の頭の中に再現しやすい一方、話が冗長になりがちである」
といった整理を、自分の頭の片隅に置いておくということです。
ただこれはあくまで言語の”性格”に過ぎないため、その言語が常に「そうでなければならない」わけではありません。
むしろこの性格に囚われず、同じ日本語でも状況に応じて話し方を変えられることは、上手に生きてゆく上で大きく役に立つはずです。
だから僕は、英語を勉強しておいたほうがいい理由の一つに「日本語的な(細部まで伝え物語に幅を持たせる)日本語だけでなく、英語的な(端的で簡潔な)日本語も使いこなすため。」というものがあると思うのです。
日本語とまるっきり構成の違う英語に触れることによって、「こんな伝え方ができるんだ。」「こんな順序で話すのもアリなんだ」という感覚を身に付けて、母国語である日本語の性格に囚われず、より自由な表現ができるように。
将来、「もっと簡潔に話してくれない?」とか、「お前の話は淡々としてばかりでつまらん!」なんてことを言われないように。
最後に少し脱線しますが、”言葉”についての言葉を載せておきます
ドイツ語は詩を書く言葉
フランス語は愛を語る言葉
イタリア語は歌を歌う言葉
スペイン語は祈りを捧げる言葉
ロシア語は人を呪う言葉
英語は商売をする言葉
日本語は人を敬う言葉-エリカ・ケート
詩を書くにはドイツ語的に、愛を語るにはフランス語的に、歌を歌うにはイタリア語的に、日本語を使えるようになれば、もっと自由な表現ができるのかもしれませんね。
僕は大学で第二外国語としてフランス語を選択したものの、”Je ne parle pas francais”(私はフランス語が話せません)だけを頭に残して早々にリタイアしてしまった人間なので、上手に愛を語れるようになるにはもう少し時間がかかりそうです。
追伸
このコラムと同時に、【英語を学ぶということ 2】と題した、このコラムの”英語的日本語”ver.を公開しています。
正直、上手く違いが伝わるか、100%の自信はありませんが、もしよろしければそちらにも目を通してやってください。
>>【英語を学ぶということ 2】へ